「変えることのできるもの」

平成30年9月7日

 

「神よ☆変えることのできるものについてそれを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ

変えることのできないものについてはそれを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ

そして変えることのできるものとできないものとを識別する知恵を与えたまえ」

 

私も大好きなニーバーの祈りです

 

父は急性期病院とリハビリ病院にいる7ヶ月間、リスクがあるからと許可が降りずに一口のお水さえ飲むことができませんでしたが、福村先生に診ていただいた日を境にお口から食べられるようになりました。

 

福村先生と弘子先生は、父を完全側臥位にして内視鏡で状態を診ながら正確に診断してくださり、しばらくして父のお口の中にとろみ水が入り、次に豆乳ヨーグルトが入りました。

父は大きなお口を開けてパクパクと食べました。

一度もむせることなく、おいしそうにあっという間にひとパック食べました。

 

「お父さん、本当に良かったねー」

喜びが胸の奥底から湧いてきて涙が滲んだあの日のことは一生忘れないと思います。

 

父の何かが変わったのではありません。

 

診断してくださった福村先生の意識と知識が今までの先生方と違っていたのです。

それまでの先生は造影検査も内視鏡検査もリスクを診るためにしているように感じましたし、やり方も父にとってとてもハードルが高い検査に思いました。

そこに疑問を持ち、主治医の先生にそれを伝えると、「あなたのおっしゃる通りです。」と食べられる可能性ではなくリスクを診るための検査であることを認めました。

とても残念に思いました。

 

どうしたらこの人を食べさせてあげられるのだろうという考えのもと診てくださるのと、単にのどの動きを見て危険性があるのかを診るのではとても大きな違いがあると思います。

福村先生は前者で、残されている機能を見つけて、それを最大限に使えるように可能性を引き出してくださいました。

 

そして父を変えることなく、ただ体位を変え、父に合った食べさせ方や食物形態に変えて、それまで不可能と言われていたことを可能にしてくださいました。

食べさせてあげられるようにこちらが工夫する、そこにとても愛を感じます。

 

この経験を通して、食べたくても食べられない状態に置かれている方々の苦しみは、人が作り出した悲劇のように思えてなりません。

 

ニーバーの祈りにある

「変えることのできるもの」であるように思うのです。

人が作り出したものであるなら、人によって変えていけるのではないかと思うのです

 

患者はとても過酷な状態の中で懸命に生き、「食べたい、飲みたい」と全身で欲しています。

患者家族もなんとかして大切な人の望みを叶えたいと、わずかな望みでもいいから食べられる道はないかと、悲痛な想いを抱えながら奔走します。

 

それに応えてくださろうと福村先生も弘子先生も献身的に取り組み続けてくださっています。

完全側臥位法はそれ自体もとても素晴らしいものですが、中心にいるおふたりが患者側に立ってくださっていることもとても素晴らしいのです。

 

今まで常識とされてきたことが、必ずしも目の前の方にとって最善ではないこともあるのではないかと思います。

医療現場において、常識を変えるのは難しいことなのでしょうか

変わることを阻んでいるのは何なのでしょうか

患者は表情や声、声にならない声、全身で訴えています。

その必死な想いや声を聴いてほしいのです。

 

その方の望みを叶えてあげたいという想いが、変えることのできるものを変える勇気をくれるのではないかと、そんなふうに変わってほしいとこころから願っています。